ジップスタイルズを率いる代表の一級建築士 橋本 晋也。今回はジップスタイルズの頼れる社長にジップスタイルズの創業ヒストリーを語っていただきました。

―橋本:
私は、小さい頃から図画工作が大好きでした。
母方の祖父は型紙師の親方でした。
型紙師とは着物の図面を書いて、細かな模様を彫っていく、今でいう職人。親方である祖父の元に若い衆が集まり、人がいっぱい出入りする家で育ちました。

そんな影響もあって、小さい頃から「何かものを作る仕事がしたい」と夢を見ていたんです。
最初は絵描きか彫刻家かな…と漠然と思っていましたが「それで食えるか?」というとやっぱりちょっと難しいものがあるな〜と迷っていました。

私は城造りで有名な藤堂高虎の番頭の家系と言うこともあり、父からも建築の道を進んでみても良いのではと言われていました。

そんなときに、父の仕事の関係で、石田建築研究所の石田先生という方が作ったある開発事業の図面とパースを見せてもらい…「かっこいいな〜!自分がやりたいのはこれだ!」と思ったんです。
それが小学校高学年くらいのことでした。

大学に進学し、就職活動で都内のデザイン事務所の採用試験を受けたりしました。でも、当時の初任給はとても安く、東京では暮らせない!ということで、四日市の店舗中心のデザイン事務所に就職することに。

入った事務所では近鉄百貨店や松坂屋百貨店などにブランドがどんどん出店していた時代だったので、とにかく仕事はたくさんありました。
3年目くらいで一級建築士の資格も無事に取れ、仕事は店舗設計・施工の仕事や営業もしていました。
でも、だんだん「儲ければいい」という会社の方針がイヤになってしまったんです。

最終的に地元で密着してきちっとしたものを作っていきたかったので、その会社を退社して次の道を歩むことにしました。

働いていた会社を辞めたころは、身体も心もかなり疲れてしまっていたので、海外へ出よう!と決心しました。
当時乗っていた車などを売り、現金200万円とサーフボードを持って世界を転々とサーフィンしながら旅をしました。

韓国から、サーフィンのできるバリなどを経て辿り着いたのがオーストラリア。
そこでたまたま「あるサーフショップの店舗図面を募集している」と聞き、設計事務所のお手伝いを始めました。

1年ほど現地のラーメンショップやブティック、レストラン、ラウンジなどのプロデュースを手がけながら滞在していました。

ところが、ビザの延長が認められず帰国することになってしまったんです。

帰国して、何をしようというときに、三重県が開催する万博の建築専門の職員にならないか?と声がかかり、三重県世界祝祭博覧会’94の建築を担当。
同博覧会は、入場者数350万人を超える成功をおさめて閉会しました。

そのまま公務員になるという道もあったのですが、やっぱり公務員ではなく、自分の作りたいものを作りたい!と、一文なしのところから、平成7年にジップスタイルズの前身となるジップインテリアアーキテクツ一級建築士事務所を設立しました。

その5年後に有限会社ジップコミュニケーションズとして法人化し、店舗設計などもやっていましたが、令和1年にジップスタイルズ株式会社として新たにスタートを切りました。

たくさんの方の住宅を建築していく中で、「かっこいいだけじゃない家づくり」とは何かをつきつめていきました。
そこで気づいた住宅にとって最も大切なのものが「丈夫さ」でした。

有名建築には有名建築としての良さもあるかもしれませんが、これから暮らしていく家なら「安全」ってやっぱり欠かせないものだなと思います。

そこでジップスタイルズはPanasonic Builders Groupに加盟し、テクノストラクチャー工法の家づくりを導入しました。
テクノストラクチャー工法は手が届く価格でご提供できる、最上の丈夫さを実現できると工法だと考えています。
できるだけたくさんの地元の方々の安全を守りたい。その思いで家づくりを行うようになりました。

デザインだけじゃなく、丈夫さを兼ね揃えたジップスタイズの家を是非ご体感いただけましたら幸いです。